*** 生い立ち編 ***
彼女と初めて会ったのは27歳の頃、京都の常盤で新設する診療所だった。
褐色な肌にそばかすがちらほらと、だが一番印象に残っていたのは、『いつもニコニコ満面の笑顔』だ。 彼女はこの診療所で一緒に働く同僚だった。
年は私より一つ上…他の同僚たちは3~4歳下だったので、自然と話す機会が多くなっていた。
1年ぐらい経った或る日、彼女の亡くなった母親の事で相談にのっていた事もあって、家に招いてお好み焼きをご馳走してもらった。
そこで、自分の生い立ちを話してくれたのだが…話を聞いていくうちに、「えっ!それって、実話なのか?一昔前の小説かドラマの中の話じゃないのか?」と、突っ込みを入れたくなるような悲惨な話だった。
…遠距離ドライバー(平たく言えばトラックの運ちゃん)の父親と、入退院を繰り返している母親の5人兄弟の頭として生まれたのだが、トラックの運ちゃん=酒飲み+遠距離なので数日間家を空けている。
母親は、今で言う『心療内科』…(昔はそんなシャレた名前で呼ばず、人が想像する内容もまったく違っていた)で、入退院を繰り返していたので、周りの子供たちには石を投げられたりして(兄弟全員)いじめられ、大人たちには陰口を言われ、疎外されていたと言う。
…彼女は私にはっきりと言った。「母はキ〇ガ〇なんかじゃなかった!言っている事にちゃんと筋が通ってたから…」と、
父親は留守が多く、母親は入院…なので、小学校の時から家事は全部自分がやっていたとの事。
6年になった時には5番目の弟が生れ、しかしながらこんな環境なので、小学校の休み時間に学校を抜け出して、(すぐそばが自宅)おむつを替えたり、ミルクを飲ませたりしていたそうだ。…後に弟本人も言っていたが、「僕は姉に育ててもらったと言っても過言じゃない。」と、
まだ幼い小学生が家事をするのだから、完全には出来ないのは当たり前だ。
洋服も着たきり雀に似た状態で、風呂も頻繁には入ってなかったので、見た目の汚さとにおいで疎外の仕方も酷くなったと言う。
…ある日の放課後、帰路を急いでいた彼女にクラスの男子数人が、「家に帰らせない!」と言ってクラス中の机を彼女めがけて動かして、机でバリヤーを作ってそのまま帰って行ってしまった。
彼女の居る教室は二階、無理に机を動かせば崩れてしまう。…唯一、窓は開くのでそこから逃げられるのだが下は階段…しかし、そこしか逃げる手立ては無いので、思いきって階段へ飛び降りて家に帰ったそうだ。
他にも父親在中の時(お酒を飲んでいる)に、夜お米をといでいると、「うるさ~い!」と言って取り上げ、彼女めがけてぶち撒いた。
こんな家庭環境だから、当然お役所関係が介入して来て兄弟バラバラに…
彼女は私に言った。
「一番辛かったのは、兄弟たちが施設に連れて行かれる時だった…私がちゃんと育てるって何度も言ったんだけど…弟や妹たちが車に乗せられて行った時、絶対一緒に暮らせるようにするからね!って、泣きながら叫び車を追いかけた…」
「そして、自分に兄弟を引きとめられる力が無かった事も悔しかった…」と、あとで付け加えていた。
話を聞いているうちに自然と涙がこぼれていた。それを見て彼女は「私の為に泣いてくれて有難う。」と言ってニコッ!と、こわばった笑みを見せてくれた。
・・・・・彼女に関しては、一言では語り尽くせない不思議な体験と過酷な現実がある。
がしかし、 続きはまた次回に記載します。
涙するより驚愕で。。。
返信削除本当にあるんですね。
ドラマの世界のようです。
たぶん同年代だと思いますが、私の身近にはあり得ない話で驚いてしまいました。
同時に自分はなんて恵まれていたのだろう、と思います。
続きがあるのにも驚いていますが。。。
めぐさん、
返信削除コメント有難うございます。
私も彼女ん話を聞くまでは、ドラマや小説の中での事と真剣に向き合っていませんでした。
…本当に私たちは恵まれていますよね。
彼女の一生は何だったのか?…本当に考え深いものでした。